大戦略誕生秘話「超シミュレーションゲーム誕生」

 大戦略誕生秘話「超シミュレーションゲーム誕生」 著作:宮迫靖(みやさこ おさむ)

●はじめに

 ちょっと話はそれるが、私が大学生の頃、夢中になって読んだ本に「超マシン誕生」という、当時のデジタルイクイップメント社(最近、コンパック社に買収された)と対抗するデータゼネラル社のエンジニアが、ミニコンの新製品を開発するというノンフィクションがあった。

 当時は、私もプログラマの端くれであったため、新製品の開発に、果敢に挑戦する若きエンジニア達のドキュメンタリに思わずのめり込んだわけであるが、今回、この連載のタイトルを考えていた際に、ふと自然に思い浮かんだのがこの本のタイトルである。そのまんまなので引け目を感じないでもないが、これから書こうとしている内容に、とりあえず今思いつく範囲では、いちばんピッタリという気がしている。

 前置きはこれくらいにして、さっそく本編に入ろう。

●第1話「運命の出会い」

 1985年(昭和60年)7月9日。

 その日は朝から梅雨の合間の太陽がふりそそぎ、会社にこもって仕事をするには、きわめて精神衛生上よろしくない日であった。昼過ぎに受付から電話があって、アポイントなしにゲームソフトを持ち込んだ人が来ているとのこと。たまたま私しか対応できる者がいなかったので、内心やれやれと思いつつ、重い腰を上げた。

 行ってみると、スラリとしたかなり長身の男が立っていた。ジーパンにTシャツというラフな格好には別に驚きもしなかったが、後ろには赤ん坊を抱いた奥さんとおぼしき人もいっしょだったのには、面食らってしまった。とつぜんここで浪花節が始まったらどうしようか、という不安が心をよぎったのである。

 妙な緊張感が走る中、挨拶もそこそこに、さっそく見せてもらうことにしたが、おもむろに取り出したフロッピーディスクを見ると、なんとPC-98用ではないか! 当時、ゲームといえばPC-88に代表される8ビット機が主流であり、PC-98などの16ビット機は、仕事用と相場は決まっていた。ますますもって、気が重くなっていくのが感じられた。

 PC-9801F2の、5インチ2DDディスクドライブが独特の音色でアクセスを開始し、長めのアクセスのあと、突如としてテキストグラフィックで描かれたタイトル画面が表示された。「AREA98」?。なんじゃこりゃ、と思いつつも、テキストグラフィックを使ってしまうというのは、いかにも素人にありがちなパターンだな、と思わず苦笑した。しかし、その次の瞬間、思わず自分の目を疑った。

 登場すると思われる兵器が、通常のドットグラフィックで次々に表示され、その横には兵器名がテキストで、効果音とともに1文字ずつ表示されるという、凝った演出が始まったのである。しかも、私はちょうどそのころ「立体版遊撃王」という、戦闘機のフライトシミュレーションゲームを担当していたので、パッと見ただけで、いかにそのグラフィックのシルエットがディティールにこだわり、マニアの心を捉える描写になっているかが分かった。

 しばらく、そのオープニングに見とれていたが、ふと我に帰り、平静を装ってゲーム画面を見せてもらうことにした。めんどうを背負ったと思っていた、ついさっきまでとうって変わって、アクセスする間が待ち遠しく感じられた。ようやくアクセスが終り、ついにゲーム画面が表示された。そして今度は、オープニングのときとは比較にならない、背筋に電流が走るくらいの衝撃を受けたのである。

●第2話「不退転の決意」

 とつぜん妻子連れで乗り込んで来た、この長身の男こそが、大戦略シリーズの生みの親、藤本淳一である。当時、すでに26歳。ゲームのプログラマとしてデビューするには、やや遅咲きの感は否めない。しかも所帯持ちである。

 四国は愛媛県の松山市に在住。今までパソコンショップの店員をしていたが、その傍らコツコツと作り上げてきたとのこと。ようやくあるていどの形になったので、一大決心をしてソフトハウスに持ち込むことにしたということである。そのときの話では、いくつか候補の会社があって、もしシステムソフトに採用されなければ、その足で他社に向かうつもりだったようだ。なんでも昨晩、家を出発し、フェリーで九州に渡り、やってきたという。妻子を連れてというのは、まさに不退転の決意の表れでもあったのである。

 一見、もの静かな物腰の人物であるが、内に秘めたるものには、この「AREA98」と名づけられたゲームと同様に、なんともいわれぬ迫力を感じたのを覚えている。

 アクセスが終ると、やや間を置いて、ゲーム画面が表示された。画面の上半分の右側に、全体マップとおぼしき表示部分が。そして左側には、シミュレーションゲームの定番である、六角形のマス目、いわゆるヘックスで構成された表示部分が映し出された。

 今となっては当たり前の画面構成ではあるが、当時としては、極めて斬新に感じた。特にヘックスの11つのグラフィックが、何がどうだというわけではないのだが、とにかくインパクトがあった。しかも、その上に兵器が配置されると、ますますもって自分が興奮してくるのがわかった。

 当時は、業界に「スーパープログラマー」という呼び名があって、ゲームソフトにおいては、プログラムのテクニックを駆使するのが、1つの売りにもなっていた。だから、一般的にはプログラマーはプログラミングに撤するのが普通で、グラフィックに関しては絵心のある別の専門家が担当することがほとんどであった。

 ところが藤本の場合には、全て自分一人でグラフィックも描いたという。確かに、地形のグラフィックは、それだけを見るとちょっと幼稚な感じもする。しかし兵器が配置され、トータルで見ると、実にうまくマッチしているグラフィックになっている。

 そして、見せ場となる戦闘シーンを見せられるに至って、まさに背筋に電流が走るくらいの衝撃を受けてしまったのである。

 戦闘機から発射されるミサイルや、地上兵器を攻撃する爆弾が、単に直線的に目標に向かって飛ぶのではなくて、実に芸の細かい動きをするのである。しかもBEEP音で作った効果音と相まって、より臨場感を醸し出していた。その当時のシミュレーションゲームといえば、ボードゲームを単にパソコン上に置き換えただけのゲームがほとんどであり、また、それでも十分にマニアは楽しめたのである。

 しかし、この持ち込まれたゲームは、いわゆる「演出」の要素が加わった画期的なゲームシステムであった。戦闘シーンそのものは、演算と乱数によって、すでに結果が決まっているものを、改めて表示しているに過ぎない。そこをあえて、11つの兵器が交戦しているように表現することで、リターンキーを叩くときに思わず力がこもるのだから不思議である。

 藤本の説明が延々と続く。聞けば聞くほど、凝りに凝った作りとなっているのが分かった。ここまでのものを、ほんとうに素人が作れるのだろうか? もしかしたら他のソフトハウスの社員かもしれない、と最初は思ったくらいである。しかし、よくよく見ると、やはり荒削りの部分も多々あることに気付き始めた。このままでは、製品として売ることはできない。かなりのアレンジが必要であることは明確であった。しかし彼としては、できるだけ早く結論が欲しいと言う。

 しばし当時の上司と相談した結果、今晩一晩、テストプレーをしたうえで、明日の朝、結論を伝えることでどうだろうか? と本人に確認した。奥さんと二言三言相談したあと、それでお願いしますという返答であった。さっそく、近所のホテルを手配し、そこに彼らには泊まってもらうことにした。

 一方、緊急事態ということで、少しでも余裕のある社員を全てかきあつめて、今晩、徹夜覚悟でテストプレーをしていただくことをお願いした。さっそく、一人二人とコピーしたフロッピーディスクを自分のマシンにセットし、テストプレーが開始されたのである。

●第3話「BASIC言語」

 持ち込まれた「AREA98」と称するゲームソフトであるが、実はゲームそのものの評価とは別に、1つ問題点があった。なんとBASIC言語で組まれたソフトだったのである。一部には機械語も使っていたが、メインはBASICである。前述のように、当時は8ビット機がゲームソフトの主流であり、そうなると機械語で組まれるのが当たり前であった。16ビット機であれば、確かにスピードの点では問題ないものの、プロが作る製品としては、非常識とも言われかねない状況であった。

 しかも、そのころの16ビット機のプログラミングは、C言語で組んでコンパイルして実行プログラムを作るのがトレンドになりつつあるときで、もはやBASIC言語は過去のものになりつつあるときでもあった。当時のBASICは、NECPC-8001の成功以来、PC-98においてもROMに焼き込まれており、一種のOS的な役割も持っていた。電源を入れると、真っ先にBASICインタープリタが起動するわけである。このN88-BASICは、インタープリタ方式であるため、コンパイラ方式と比べれば、処理スピードの点において圧倒的に不利であるばかりではなく、C言語のような新世代言語と比べて、プログラミングの効率においても、大きく時代遅れであったことは、誰の目にも明らかであった。

 しかし、そこはゲームソフトの本質からすれば、大きな問題ではないかもしれない。要するに処理スピートは、その時点においては問題なさそうであったし、ゲームソフトであるからには、面白ければそれでよいわけである。

 果たして、それはそれで良しとしたわけであるが、今になって思うと「大戦略シリーズ」が苦難の開発の歴史を歩むことになった要因でもあったのである。

  テストプレーをできる限り多くの人にやってもらおうと、いろいろな人に頼み回った。できれば、あまりゲームをしたことのない人や、シミュレーションゲームが好きでないような人の意見も聞きたかった。

 当時、開発部の課長であったM課長は、元もと人がよくて何でも協力してくれていたのであるが、さすがに今回だけは露骨にイヤな顔をされた。戦争ものというだけで、まずは自分のポリシーに合わないとか、シミュレーションゲームは面倒そうだから、とかいう理由で、なかなか首を縦に振らなかったのである。そう言われると、ますますもってやってほしくなった私としては、拝み倒すような意気込みでお願いして、ようやくやってもらえることになった。

 テストプレーが開始されて、そろそろ1時間が経過した頃だろうか。社内のあちこちで、奇声があがり始めたのである。「そらやれっ」「よしっ。もう1機。」「くそ~っ。やられたぁ。」 ふとM課長を見ると、握りこぶしを作って、画面を食い入るように見ているではないか。他の人に目を移しても、やはり同じであった。気合いを入れてリターンキーを叩く人。思わず頭を抱え込んでいる人。中にはディスプレーを揺さぶって悔しがっている人もいた。

 そうなのである。ほとんど全員がハマッてしまっていたのである。とうぜん私自身もそうであった。この時点で、ほぼ結論は出ていたようなものであったが、最後までプレーをしてみることを全員にお願いした。そして数時間後、終った人が三々五々、フロッピーディスクを片手に私のところにやってきて、感想を述べていった。大方としては、良い意見が多かった。例のM課長も、にこにこしながら「久しぶりに熱中できたよ。」と言ってくれた。しかし製品とするには、かなり改良する必要があるということも言い添えられた。

 私を含めた数名は、さらにやり込んでみることにした。特にF氏とK氏は、ひじょうにのめり込んでいたために、結局、彼らを含めて56名ほどは徹夜でプレーし、途中で激論を交したりもした。私も久しぶりに苦にならない徹夜を経験した。夜が明ける頃には、完全に私の気持ちは固まっていたし、大ヒットに結びつける自信も沸きつつあった。

 そして私は朝、出勤してきた上司にその旨を報告し、最終的な確認のために当時の副社長であったヘンリー山本に相談に行った。私としては、すでに製品化するつもりで考えていたので、さっそく藤本氏に連絡をして、会社に来てもらうことにした。

 しばらくして、上司が頭を抱えながら戻ってきた。なんとヘンリー副社長からは、否定的な意見をいただいたというのである。私としては青天の霹靂である。思わず椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がると、副社長室へと向かったのである。

●第4話「伝説の珊瑚海海戦」

 「現代大戦略」の発売の2年前、19833月にシステムソフトは「珊瑚海海戦」という、知る人ぞ知る超コテコテのシミュレーションゲームを発売した。PC-8001用でありながら、フロッピーディスク3枚組み。しかも、ボードゲームと同等の作戦盤や駒も付属しており、その分コストがかかったので、価格も14,800円! 何から何まで異色中の異色の製品であった。

 当時、フロッピーディスクドライブは高嶺の花の存在(記憶容量160KB×2ドライブで32万円!)で、ましてやゲームソフトのために使うなどとは、誰も考えなかった時代である。とうぜんと言うか、「珊瑚海海戦」は話題にこそなったものの、結果として大赤字に終ったのである。

 今にしてみれば狂気の沙汰としか言いようがない。プログラムを開発したのがW氏、それをプロデュースしたのがS氏であるが、両氏ともにシステムソフトの中でもひときわ異色な社員であった。特にS氏については、別の機会に紹介することになると思う。

 その悪夢のような記憶が、ヘンリー副社長の脳裏をよぎったのかもしれない。経営者としては、慎重にならざるをえなかったのは、いた仕方のないことである。

 ところが、これも後日談で明らかになったのだが、藤本がシステムソフトに最初に持ち込んだのは、その「珊瑚海海戦」を発売した会社だから、良さを理解してくれるに違いない、と思ったからとのことであった。結局、世の中、何が幸いするのか分からないものである。

 若気の至りというか、元もとの性格というか、私はヘンリー副社長に直談判に向かったのである。理屈っぽい性分である私は、日系3世・米国人のヘンリーに向かって、まくしたてるように、もっともらしい理論を展開したが、結局、その場では結論が出なかった。最終的には当時の社長であった樺島正博社長が、正式決定ではないが前向きに検討してもよい、という判断をしてくれた。この樺島社長こそがシステムソフトをシステムソフトたらしめた人物であるが、彼もいずれかの機会に紹介したいと思う。

 さて、さっそく私は藤本氏に事情を説明した。申し訳ないが、少し時間が欲しい、ということを率直に伝えた。そして簡単な覚書を交して、評価用のフロッピーディスクを預かることにした。当時の資料によると、それから企画書などを私が作成し、720日までに正式決定することになったと記録されている。

 さて、いよいよ製品化に向かって動き出したわけである。ところが当時としてはあまりにもスケールが大きく、ゲームそのものの拡張性が高いために、整理するべき仕様が次から次に出てきてしまった。いっこうにまとまらないままに、時間が過ぎていった。当初は9月には発売できるかな? というつもりであったが、それはとんでもなく甘い見込みであった。

 私としては、正式決定するときに大見得をきった手前、なんとしてでも早急に発売に漕ぎ着けたかった。しかし、いかんせん松山は遠く、修正したプログラムをフロッピーディスクで届けてもらうのに、2日間はかかった。このままでは、ズルズルと遅れてしまうと思った私は、やむをえず、こちらに来てもらって作業してもらうことを、藤本にお願いすることにした。

 電話で伝えると、何やら奥さんと相談するような声がした後「分かりました。スクランブル発進します。」と快諾してくれた。やれやれと思いながら、翌日待っていると、何と午前中には会社に来たのである。びっくりしてたずねると、昨日、電話があった後、すぐに車で、家を出発したとのこと。まさにスクランブル発進をしたわけであった。

 それからが、また驚異的であった。私の横に張りつきで、修正作業を進めてもらったわけであるが、プログラミングをしている藤本は、ほとんど一睡もしないままに、黙々と作業をやり続けたのである。それも、まるまる3日間である。彼以外の人間のほうが、ダウンしていった。私も、彼よりは3歳若いわけだし、プログラミングに比べれば、まだ楽な仕事だったはずだが、やはりついていけなかった。徹夜も2日目になると、藤本の後ろ姿には、鬼気迫るものを感じた。

 さすがに、このままだと体をこわすから、とにかく少し休んでくれ、とお願いしたのだが、いや大丈夫だ、と取りあってくれない。仕方なく、せめてものということで、ドリンク剤を数種類用意したが、それも効かなくなりつつあるように見えた。明らかにキーボードを打つスピードが落ちていたのである。

 そして当初予定していた仕様が、ほぼ全て入ったのが、ちょうど3日目の深夜のことであった。かなりバグは残っているものの、なんとか製品として格好が付く形になっていた。あとはデバッグだけなので、そう長くはかからないだろうと高を括っていたが、それも大きな誤算であった。それからが本当の地獄だったのである。

●第5話「ネーミングとパッケージデサイン」

 ゲームを製品化する過程においては、プログラムの開発はとうぜんのことながら、他にもたくさんのことを並行して進めなければならない。製品企画担当者としては、もっとも忙しい時期にたくさんのことが集中するので、そうとうな精神力が要求される。やはり自分の担当の製品が、本当に好きでなければ良い仕事はできないわけである。

 それらの作業の中で、もっとも重要なのが、製品のネーミングとパッケージのデザインである。製品の顔であるから、これらを決めるときには最大限の知的労力が払われる。とくにネーミングについては、いろいろな人に意見を聞いたり、形式的な社内手続きで決裁を仰ぐことはあるが、実質的には製品企画担当者が決めることになる。

 「大戦略」についてもそうであった。まず私としては「戦略」というキーワードは必須であると考えていた。なぜならば、私がそれまでに出会ったどんなゲームと比較しても、コンピュータの思考に「戦略性」を感じたからである。このキーワードを中心にして、いろいろなバリエーションを思い付く限り並べてみた。

 結局、「大」を頭に付けただけのことであるが、「大戦略」がいちばんマッチしているし、ネーミングとしてもシンプルで充分にインパクトがあると判断した。しかし、どうもこの3文字だけだと、あまりにも漠然としている感じで、的が絞られていないようにも思った。しばし悩んだあげく「現代」を付けたのであるが、それにはマーケティング的な意味あいもあった。前話での「珊瑚海海戦」での失敗経験と、シミュレーションは売れないという市場のイメージに対するものである。

 当時のシミュレーションゲームというと、第2次世界大戦や戦国時代をテーマにしたものがほとんどで、それらは実際の史実を元にゲームが作られているので、「ヒストリカル・シミュレーション」と呼ばれる。ところが大戦略は同じ軍事物でも、根本的に異なる。むしろ架空の戦争をシミュレートするものであり、かつ、まさに現代の兵器によるシミュレーションゲームである。つまり、他のシミュレーションゲームとは一線を画するということを、どこかでアピールしたかったわけである。それで最終的に「現代大戦略」に落ち着いた。

 と説明してくると何日間も悩んだように思われるかもしれないが、今だから本当のことを言うと、実はプログラム開発にかかりっきりで、ネーミングのことをすっかり忘れていたのである。尻に火が付いた状況で、あわてて考えたのが実態で、今も鮮明に覚えているが、考え始めたのがある日の夕方で、結論を出したのが、その日の夜であった。要するに半日もかかっていないのである。えてして何かを発想するときはそういうもので、何日もかけたから素晴らしいアイデアが浮かぶものでもない。と今だから、開き直って言えることではあるが...

 さて、ネーミングの次はパッケージデザインである。さっそく外注のデザイナーを呼んで私のイメージを伝えた。そして何案かのサンプルを出してもらうことにした。しかし、私は最初から何となく不安を感じていた。当時、コンピュータゲームという製品は、極めて特殊な存在であり、デザイナーにとっては、ひじょうに苦労をする仕事であった。しかも戦争物というマニアックなものであるため、いっそうである。

 果たして予感は的中した。いくつかのサンプルがあがってきたものの、どれも全くと言っていいほど、ピントがずれているのである。少なくとも軍事マニアの心をくすぐる要素が欲しかったのであるが、マニアが格好いいと思うのと、普通の人がそう思うのとでは、大きな違いがあるのである。何回かのやりとりの後、デザイナーが音をあげてきて、何か参考になるものはないか? ということだったので私は、例えば兵器のプラモデルの箱を見たら何かヒントがあるかもしれないということを伝えた。そしてミリタリーもののプラモデルといえば、私が小・中学生のときに熱中したのは「田宮模型」のシリーズであったこと思い出して話題にした。

 しばらくして、ようやく満足のいくレベルのサンプルがあがってきた。それが最終的に「現代大戦略」のパッケージデザインになったのであるが、それには後で分かることになる重大な問題があったのである。実は、そのデザインの元になったのが「田宮模型」のカタログの表紙だったのである。つまり一歩間違うと無断の流用になりかねない。社内が騒然となった。このままでは使うことはできない。しかしここでデザインをやり変えるとなると、広告やカタログなども発売に間に合わなくなる危険性がある。またしても万事窮すである!

●第6話「地獄のデバッグ」

 持ち込まれた日のテストプレー時に、もっとも熱中していた社員の一人が、K氏である。彼の本来の仕事は広報担当である。広報とは、雑誌社などの窓口であり、ゲームの記事をたくさん書いてもらうようにするのが仕事である。

 パッケージデザインをどうするか、会議を開いたわけであるが、そこでふとそのK氏が「では田宮模型に許可をもらえばいいではないか」といともあっさりと言ったのである。確かにそれであれば問題ないだけでなく、田宮模型のお墨付きということであれば、営業的にも有利な要素となる。しかし私にとってみれば田宮模型とは少年時代からの憧れの的であり、しかも雲の上のような存在の会社である。静岡市に本社があることは知っていたが、どんな会社か分からない。少なくともプラモデル業界の最大手であるし、そう簡単に許可がもらえるとは思えない。当時のシステムソフトは無名であり、パソコンゲームも一般には浸透していない。

 とりあえずダメ元でやってみようということになり、K氏はさっそく電話を入れた。私はそわそわと電話中の彼の回りをうろついていたが、長めの電話が終ると、ややこわばった表情ながらも「なんとかなりそうだよ」ということであった。私は少し安心したものの、結論が出たわけでもない。先方の返答待ちということであったが、いてもたってもいられず、こちらから出向くことにした。

 いったん東京まで飛行機で行き、新幹線で静岡駅まで戻った。タクシーに乗って「田宮模型」と告げると、あっさりと当たり前のように本社ビルに着いた。玄関を入ると、ずらりと並べられたプラモデルのジオラマが私の目に飛び込んで来た。思わず見とれている私をよそに、K氏は受付嬢に挨拶し、担当の人を呼び出してもらった。

 間もなくその人が現れ、さっそく話が始まった。すでに結論は出ていたようで、こちらの熱意をくんでくれて許可していただけるとのことであった。私は天にも上る気持ちであった。そして許可のクレジットとともに、田宮模型のロゴをパッケージ入れることで双方合意した。私としてはロゴを入れなければならないということよりも、入れられるということのほうがメリットが大きいように思った。少なくとも私のようなプラモデルマニアは少なからずいるはずだからである。

 話はプログラム開発のほうに戻る。3日間の完徹の後、藤本を気持ちよく松山に返して、我々社員一同は、最後のデバッグ作業に入った。あとは電話連絡でマスターアップまで持って行けると踏んでいたのである。ところが1日、2日と経過するにしたがって、会社全体に、またしても暗雲が立ち込めていった。いっこうにバグの数が減らないのである。むしろ、やればやるほど増える傾向にあった。それまでにも、弊社はたくさんの数の製品を発売してきていたが、こういうことは初めての経験であった。

 私は元もとはプログラマー出身であるため、プログラムの中味をデバッグの傍ら分析してみた。そして、それまで出会ったプログラムと根本的に違うことを、徐々に認識しつつあった。要するに、あまりにも汎用性があり過ぎるのである。そもそもシミュレーションゲームに、マップエディタが付属しているということ自体が特殊である。ありとあらゆる状況に対応できるようにしていることが、デバッグにおいては決定的なアダになっていたのである。

 何度も議論を重ねて、一時はマップエディタをはずすことも検討した。しかし、それだと他のシミュレーションゲームと大差なくなってしまう。マップエディタの存在こそが、このゲームの最大の特長と言って過言ではないからである。あらかじめ全体像が分かっているマップでシミュレーションゲームをコンピュータが思考する場合は、いくつかの定石を用意しておくことで、かなりのところはカバーできる。それだけプログラムの負担が少なくなるのである。しかし、この「大戦略」は、全く次元の違うシミュレーションゲームである。それをアピールするためには、是が非でもマップエディタは必須なのであった。

 結局のところ、私の主張が通りマップエディタはそのままに、デバッグ作業が継続されることになった。あとは時間との闘いである。24時間体制で常時56人がデバッグするという人海戦術をとったが、それでもやはり予定を大きく超過した。スタッフ全員に疲労の色が濃くなりつつあったが、ここまでくると精神力の勝負である。最後の力を振り絞って臨んだ結果、ようやく目処が立ち始めたのが11月に入ってからであった。

 怒涛のデバッグ作業もようやく終焉を迎え、ついにマスターが完成した。待ち望んだ発売日は、1119日に決定したのである。

●第7話「思考ルーチン」

 その昔、月刊アスキーにPC-8001用の「フリートコマンダー」という海戦シミュレーションゲームが掲載されたことがあるのを、ご記憶の方はいるだろうか? 私は当時、大学の1年生で、パソコン(当時はマイコン)を始めたばかりの頃である。サークルの誰かがリストを打ち込んでくれていたのを見つけて、何げなくプレーを始めたのであるが、私はだんだんと熱中しつつある自分に気付いた。というのも、コンピュータのプログラムについて、その概念をほぼ理解しつつあった頃で、コンピュータに思考させることの難しさが分かっていたからである。

 人口知能とかAIという言葉がかつて流行ったことがあるが、最近はあまり聞かれない。ある雑誌で読んだが、その方面の研究は短期間のうちに行き詰まってしまったとのことである。要するに、現状のノイマン型のコンピュータの限界があっさりと見えてしまったのである。これを打開するためには、非ノイマン型のコンピュータの登場を待つしかないのであるが、本格的な普及には、まだしばらく時間がかかるようである。

 さて、ゲームの世界においてコンピュータに思考させるという典型例は、将棋や囲碁の類であろう。8ビットコンピュータの時代には、オセロ選手権大会なるものが雑誌で開催されたりもしたが、現状ではオセロについては、パソコンでも人間はかなわない。チェスも、そろそろ危なくなってきている。それらについては、最初から最後までコンピュータが読み切ってしまうからである。

 いっぽう、最近のパソコンの将棋ソフトは、かなりのレベルに達していると聞く。囲碁ソフトは、まだ発展途上のようであるが、これも少しずつ強くなっていくのは間違いない。しかし将棋・囲碁については、現状の延長線では、いずれ限界が来るものと私は考えている。

 それはさておき、大戦略をやり込んでいる人であればお分かりと思うが、大戦略は将棋に近い。であるから大戦略もきちんとコンピュータに思考をさせれば、それなりの強さにはできる。ところがそれだけではダメなのである。なぜならば、大戦略はあくまでもゲームだからである。ゲームである以上、とうぜんであるが面白くなければならないのであって、将棋や囲碁とは面白さの質が異なることを忘れてはならない。これが今まで開発してきた中で「ゲーム性とシミュレーション性のバランス」という永遠のテーマとなっている。

  話は戻るが、その「フリートコマンダー」なるゲームのどこに惹かれたかというと、あたかもコンピュータが意志を持っているかのように感じたからである。8ビットのコンピュータに、そんなことができるわけがないということは分かっていたが、それでも何となく、そういう印象を持ったことだけは確かである。

 探求心が旺盛な私としては、さっそくプログラムの解析を始めた。そしてたどり着いた結論は、なんと「乱数」のなせる技だということだったのである。コンピュータが次にどういう行動に出るか、という判断をさせる際に、ほとんどが乱数を使っていた。つまり論理的に思考しているのではなくて、行き当たりばったりでやっているのである。ただしそれは「いい加減」ということではなくて、何度もテストプレーをしながら、適当な値を見つけたはずである。今ふうに言うならば、バランス調整を充分にやったということになるであろう。

 実は、大戦略もそれに近い思考ルーチンを持っていた。前話でのデバッグの最中に解析をして分かったことである。古い記憶の中から「フリートコマンダー」が蘇り、目の前の「大戦略」とイメージが重なった。突如として敵の赤い艦影がディスプレーに現れたときと、敵(赤軍)の戦闘機がヘックスに現れたときの興奮が、まさに同じものだったのである。

 発売日が決まると、さっそく営業活動が開始された。私は期待と不安が入り混じる中、営業マンからの報告を待っていた。すると、やはりというか苦戦中とのこと。あるていどは予想していたので、特に動揺はなかったが、それならばと私はさっそく次の手を打つ準備に入った。多少の長期戦は覚悟していたのである。これも今にしてみればオーソドックスな手法であるが、顧客の囲い込み作戦として、ユーザー登録カードを同梱することにした。

 しかし当時はゲームソフトでユーザー登録をすることは他社でもあまり例がなく、誰が登録作業をするのか? その後の管理はどうするのか? などという問題が次から次に社内で沸き起こった。私も初めての経験なので、それらの批判を納得させるだけの材料があるわけでもなく、でも私にはそれなりの勝算があったので、これも若さゆえであるが、全て自分の責任で引き受けると豪語してしまったのである。

 そうこうするうちに、発売日も迫り、最初苦戦と言っていたにもかかわらず、どういうわけか私の目標通りの1万本の注文が取れたとのこと。これで仕込みも充分、意気揚々と発売日を待った。

●第8話「コピープロテクト」

 最近はあまり聞かれなくなったが、フロッピーディスクがソフトウェアの供給媒体であった頃には、特にゲームソフトにおいて、違法コピーされることを防ぐために、各社ともにコピープロテクトにやっきになっていた。大戦略が発売された頃は、CD-ROMが登場し始めたときで、遠い将来CD-ROMに置き替わってしまえば、こんな無駄な苦労をしなくてもよくなるのに、と思っていたものである。ところが、結局のところ安価なCD-Rライターが、こんなにも早く普及してしまうとは、当時は全く想像できなかった。

 それはさておき、「現代大戦略」においても同様で、しかも藤本オリジナルのコピープロテクト方法であった。ふつう、ゲームのプログラマにとっては、コピープロテクトのためのプログラミングは、あまりやりたいことではないものである。しかし藤本の場合は、持ち込んだときからかなり研究していて、自分の方法に自信を持っていた。その詳細は割愛させていただくが、いくつものトラップを仕掛けていたのが特長であった。コピーする側の心理を突いた方法であり、ある程度の効果があったと記憶している。

 これは単に彼の趣味ということではなくて、クリエイターとしての必然的な行動と言える。システムソフトは、コンピュータソフトウェアの著作権の啓蒙活動をしているACCSという社団法人の理事を務めているが、その活動の一環として小学生などに著作権の大切さを教えるときに、よく使われる事例がある。それは「例えば君たちが苦労して書いた宿題の作文があるとします。それを他の誰かに無断で丸写しをされた場合に、どう感じますか?」と問いかけるのである。これで大半の子供たちは、納得し始めるそうである。悪いことだ、と頭ごなしにいうのではなくて、イヤでしょう、というアプローチをするのである。

 やはり藤本の場合も、潜在的にはそういうことだったのではないかと勝手に思っている。それだけ自分の作ったゲームに思い入れがある証拠でもある。そのこと自体は、ひじょうに好ましいことであったが、そのコピープロテクトの複数のトラップによって、私自身がとんでもない失敗をするハメになってしまうのであるから皮肉である。

 いよいよ発売の当日を迎えた。さすがに販売店の開店時に並ぶような人はいなかったようであるが、さっそく午前中にも問い合せの電話が入っていたので、上々のすべりだしであった。発売後、1週間くらい経つと、ユーザー登録はがきも続々と送られてくるようになり、私もひと安心したものである。

 ところが事態は急転することになる。そのまま尻上がりに伸びていくという予想とは裏腹に、1ヶ月も経たないうちに、明らかにジリ貧状態になってしまった。発売当初こそ、熱烈なシミュレーションゲームマニアが集中して購入したのであるが、それ以後は勢いがなくなった、というのが私の分析であった。

 さらに悪いことに、大戦略の宿命とでも言うべきプログラムの不具合、いわゆる「バグ」が次々に報告されてくるようになってきたのである。ユーザーサポートの電話は鳴りっぱなしで、しかもユーザーはマニアが多いため軍事用語を持ち出されると、サポート担当の女性たちは、ますますもって混乱するというパニック状態に陥ってしまった。担当者の責任でもあるので、私もサポート電話の対応に追われた。その一方で、販売を伸ばす努力もしなければならないわけで、さすがの私もちょっとまいってしまったのも事実である。

 まずはバグを解消しなければ売るにも売れない、ということで最優先でプログラムの改修を、藤本と共同で進めた。遠隔地の松山と電話で連絡を取り合いながら、私がプログラムの修正を行うことで、時間のロスを防ぐことができた。このときばかりは、BASIC言語であることが幸いした。なぜならば私のプログラマとしてのレベルでは、BASICていどしか扱えなかったからである(苦笑)。

 ようやくバグが解消されたので、マスターを差し替えて再度製造し出荷を再開した。ところが私はここで、人生最大級の教訓を得る苦い経験をすることになる。マスターを作成するにあたり、私はバグのあった箇所だけを修正したわけであるが、自分なりの理論上では、その方法で問題がないと確信していた。私は他にもやらなければならないこともあったので、ほとんどチェックをせずにマスターを工場に送り出してしまった。

 しばらくして再製造分の製品が出回り始めた頃、またしてもユーザーサポートの電話が鳴り始めたのである。担当の女性Kさんが、私のところにこわばった表情で訪れ、私が作成したマスターでゲームを起動すると、すぐに止まってしまうというのである。私は、そんなバカな、と思いつつ自分でやってみたところ、やはりその通りになった。私は瞬時にして、頭の中が真っ白になった。そして、理論上は大丈夫なはずなのに、という思いと現実とのギャップを埋めるために、しばらくの時間を要した。

 結局、私の作業ミスで例のトラップに掛かってしまっていたことを自ら解明したのであるが、この経験により、頭の中だけで結果を出すのではなくて、どんな簡単なことであっても、必ず実行してみるということを深く肝に命じた。そして私の社員に対しても、最低限のルールとして起動時の動作確認を徹底するようになったのである。

●第9話「一難去ってまた一難」

 どこの会社でも似たようなものだと思うが、えてして開発サイドと営業サイドとは、対立する関係になりがちである。「売上が伸びないのは営業の努力が足りないからだ。」「良い商品を開発してくれないから売れない。」という卵が先か鶏が先かという堂々巡りが展開されるのである。

 私も、今でこそ営業が仕事の大半であるが、当時はコテコテの開発の人間であった。しかも当時の営業の責任者とは、どうも相性が合わなかったのを覚えている。私は大学を出たばかりの若造で、いつも生意気な理屈ばかりをこねて営業ともめていた。

 そういう状況の中で、私のミスから発生した不良品騒動である。それみたことかと、ここぞとばかりに反撃されることを覚悟して、緊急の会議に出席した。しかしながら露骨な非難を浴びることはなく、前向きな会議となった。さすがに自分の未熟さを恥じた次第である。

 とは言うものの事態は深刻であった。悪いことは重なるもので、製造時の手違いで、初回製造分と今回の分とが、混ざった状態で倉庫に入庫されてしまった、ということが新たに判明したのである。つまり製品が入った段ボール箱を1つ1つ開けて確認するしかないということである。私の責任で発生した事態であるから、とうぜん私がその作業を行うことになったが、意外にも、かの営業の責任者が手伝ってくれることになった。

 季節は12月。時は夕暮れ。寒風吹きすさぶ中、閑散とした倉庫の中で、2人で黙々と作業を続けた。結局、この人も悪い人じゃないな、と思い直すと同時に、普段したことのない肉体労働で疲れ果てた私は、二度と同じ過ちは繰り返さないと固く心に誓ったものである。

 さて、不良品騒動も収まり、なんとか年を越せた翌年。正月気分も抜けきらない頃に、またしても思いもよらない事態が発生した。大量の返品が、どっと返ってきたのである。私には知らされていなかったのであるが、営業政策として初回注文を増やしてもらう代わりに、売れ残った場合には期限内に引き取るという約束を、流通と取り交わしていたのである。初回の注文が意外に多かったカラクリが分かったしだいである。

 それはともかく、置く場所もないくらいの大量の返品は、やむをえず会議室の片隅に置かれることになった。壁に添ってうず高く積まれた返品の山を見ると、さすがの私も気が滅入ったものである。しかし落ち込んでいても仕方ないし、また本来はもっと売れる製品のはずだ、という信念のもと、新たな対策に乗り出すことにした。

 実は、「現代大戦略」の開発を進める途中において、締め切りから逆算して、当初に計画していた仕様のままでは間に合わないことが分かり、やむをえず仕様をカットすることにした。その代わりに、半年後を目処に、パワーアップ版を発売するということで、藤本を納得させていたのである。そこで、そのパワーアップ版の予定を早めて3月までに発売することにした。

 3月というのは大半の流通会社や販売店の決算月である。何もしなければ、さらに返品が返ってくる危険性があるため、それがギリギリのタイムリミットだったのである。ここで、またしても開発陣は、私を含めて地獄を見ることになった。例の藤本のスクランブル発進も、2回くらいはあったと記憶している。

 でも私としては、それだけでは不十分な気がしていた。なんとか、もうひと工夫できないものかと思案を重ねていた。第7話で触れた、ユーザー登録カードであるが、販売は苦戦していたものの、予想を上回る数が送られてきていた。しかも熱烈なファンレターが多かった。それらを繰り返しながめながら、この人たちのパワーをお借りできないか、と思いを巡らした。そこで、ハタと思い出したのが、かの名作「ロードランナー」を発売したときに結成した「ロードランナーファンクラブ」である。ご存じの方も多いと思うが、「ロードランナー」はアクションパズルゲームで、ユーザーが自分で新しい面を作ることができる。そこで、そのファンクラブの会報にユーザーから応募されてきた面を紹介したわけであるが、最終的にはそれらをまとめて「ロードランナーファンブック」という書籍を販売した。

 「大戦略」のウリもマップエディタで、オリジナルのマップが作れることである。その気になれば、同様のことができる。しかし発想は良かったものの、いざやろうとしても予算が余っているわけでもない。返品の山を前に、さらに予算を要求できるはずもなく、それではと社内の有志を募って、勤務時間外にボランティアの活動をすることにした。それが「大戦略ファンクラブ」である。

 まずは登録カードを送ってきた人に会報を送るわけであるが、コピー代にもこと欠く状態だったため、当時はやり始めていた簡易印刷機を使った。学校でよく使われていたものと同様の機械であったため、見栄えは悪かったものの、手作りの暖かみはあったと思う。毎回、徹夜に近い状態になったが、不思議と苦にはならなかった。作業をしながら、大戦略の将来像を語り合ったものである。

 そして、その会報を通して集まったマップも同時に収録した「大戦略パワーアップセット」が19863月に発売されたのである。

 ところが、その「大戦略パワーアップセット」が発売される前に、すでに異変は起き始めていた。あれほどあった返品の山が徐々に低くなっていったのである。そして3月には、完全になくなってしまっていた。今思えば「大戦略ファンクラブ」を始めたことで、開発者のメッセージが直接ユーザーに伝わることになり、大戦略の魅力が口コミによって広がっていったことが、最大の要因と思われる。

 ここからが「大戦略」の快進撃の始まりであった。「大戦略パワーアップセット」だけでなく「現代大戦略」も、注文に製造が追い付かないくらいに好調に売れ続けた。そして、さっそく「大戦略II」の開発に着手したのである。

(本編終わり)

●コラム「ネーミングの秘密」

 薬の世界でのネーミングの鉄則として「ん」を入れる、ということをある本で読んだ。確かに「正露丸」に始まり「アリナミン」「ベンザ」「ユンケル」「サロンパス」etc.、知る限りにおいて「ん」が付かないのを見つけるほうが難しいくらいであるから、これは意識的に付けていることは間違いないと思う。また車の世界でも、以前ではラ行の文字を入れるというルールがあったそうである。有名な車の名前を思い浮かべると、確かにその通りである。

 マーケティングにおけるネーミングの重要性は、今さら議論する余地はないが、さらに規則性があるとすれば、深く追求する意義があるかもしれない。語感の響きというのは確かに重要である。昔から言霊という概念があるが、ある時代には宗教的な意味あいがあったともいわれている。

 以前あるテレビ番組で、類人猿、つまり人間の祖先をテーマにしたものを見たことがあるが、ネアンデルタール人は、ある種の言葉を話したことが研究によって分かっているとのこと。彼らが洞窟に描いた絵は有名であるが、なぜ洞窟なのか、という疑問に対する答えとして、その洞窟の音響効果が1つのヒントであった。つまり、いわゆるシャーマンとして、その部族(集団)を統括する立場にあった者が、その洞窟の中で唱える言葉の響き、神秘性によって何らかの祭事を行っていたのではないか、というのが研究者の間での解釈のようである。

 さて、社内の会議で、ある製品のタイトルを話し合っていたときに、ある人(実はかの前田くん)が、当社の場合は「ん」が入っているほうがヒットしている、という指摘をした。古くは「ロードランナー」に始まり、「大戦略」「天下統一」「マスター・オブ・モンスターズ」「エアーコンバット」、確かに往年のヒット作は全てそうである。最近では「雀道」もそうだ。これは、思わずとシメタと思った次第である。

 お気付きの人もいると思うが、実はそれから以降の弊社の製品名には、全て「ん」を入れているのである。「釣道」ではなくて「釣道~海釣り編~」、「囲碁道」ではなくて「神速囲碁道」なのは、それだけではないが、この理由による影響が大きい。もっとも、「ん」を入れたことで全てがヒットしたわけでもないので、あしからず。

 では多少、洒落気で逆に売れない製品のタイトルに共通性はあるのかどうか興味を持った。はたして、真理(?)があったのである。「クリスタニア」「ブリッツクリーク」「ゾーク」「クイズ殿様の野望」・・・、だんだん苦しくなってきたが、お分かりのように「く」なのである。よく考えてみると日本では「く」が忌み嫌われることは慣習としてある。苦労、苦しい、などを連想するからである。それから転じて数字の「九」も好まれない。死を連想する「四」も同様である。

 では「大戦略」には「く」も含まれているではないか、という反論が返ってきそうであるが、先に「ん」があれば、それを打ち消すのではないだろうか(?)。ゲーム機のソフトではあるが、「ドラゴン・クエスト」が良い例である。

 余談ついでであるが、実はこのコラムは約3年前に書いたものに加筆したものである。その当時のゲーム以外の製品についても調べてみたところ、やはり同様の傾向があった。そしてそれが社名にも及ぶのではないか、というところまで話題が広がったのである。アップル社のアプリケーションソフト部門が独立して「クラリス」という会社ができたのであるが、ある頃から製品名の頭に社名を付けて「クラリス~~」とするようになった。するとそれまで好調だったのに、雲行きがおかしくなり始めたのである。私は半ば冗談で「直ちに製品名からクラリスをはずすことを提案したい。」なんてコラムを締めくくったのであるが、結局のところクラリス社は、昨年、親会社のアップルから整理されてしまった。実名をあげるのは控えるが、パソコンゲームの創成期に好調であった某ゲーム会社も社名に「く」が入っていた。その会社は急激に業績が悪化し、別会社に吸収合併されてしまった。

 最後にまとめであるが、カ行、ガ行の音が付く製品は、全体的に不調のようである。雰囲気的には流れるような語感のもの、リズム感のあるもの、歯切れのいいもの、ということで必然的にそうなっていると言える。結局は、そういう単純なことなのかもしれない。

●コラム「コンピュータとの将棋対局(執筆日:2007.3.22
 昨日、将棋界最高位とされる渡辺明竜王と、コンピュータ将棋ソフト「ボナンザ」の公開対局が、東京都内のホテルで行われた。なんでもタイトル保持者が公の場でコンピュータソフトとハンデなしで対局するのは初めてとのことで、一時は際どい局面もあったようだが、渡辺竜王が辛勝し、なんとかプロの面目を保った形になった。

 ボナンザは、東北大大学院の保木邦仁氏が開発したソフトで、昨年5月に行われた第16回世界コンピュータ将棋選手権に初出場ながら優勝している。今回使ったコンピュータは、1秒間に400万局面を先読みすることができると報道されているが、もっと性能の良いコンピュータを使ったとすると、もしかしたらコンピュータが勝っていたかもしれない。しかしいずれにせよ、いつかはその日がやってくることだけは確実である。
 弊社のゲームソフト「大戦略シリーズ」は、基本的には将棋に近いゲームである。軍人将棋が極端に複雑化したものと考えるとイメージしやすいかもしれない。とうぜん、このゲームソフトにも、人間と対局するためのプログラムが組み込まれている。我々は通称で「思考ルーチン」と呼んでいるが、第一作目の「現代大戦略」が発売された1985年から新作を発売する度に改良を重ねてきた。20年以上も改良してきてはいるが、正直なところ人間と比べると、全くと言っていいほどに弱いというのは事実である。
 最大の理由は、そもそも新作の度にルールが追加されてきているため、第一作目と最新作とを比べると天文学的なレベルで複雑になっていること。もう一つには、将棋は縦横9マスずつに区切られた固定の場所で競われるのに対して、「大戦略」の場合には戦場となるマップを自由に作成できる「マップエディタ」が標準装備されているため、ありとあらゆる局面で対応できるようにするというのは、将棋とは全く比較にならないレベルのプログラムが必要になってくるからである。
 一般的にコンピュータが人間と競うときに有利とされているのが、コンピュータの計算スピードである。今回の対局のように、1秒間に400万局面を先読みするというような芸当は、どんな天才でも不可能である。しかし人間の場合には、闇雲に多くの局面を先読みするのではなくて、経験によって有効な手に絞って先読みするので、実質的にはコンピュータを上回ることができるわけである。この部分こそがコンピュータと人間との差であって、越えられそうで簡単には越えられない壁なのである。
 弊社では安易に「思考ルーチン」と呼んではいるものの、現在の科学の最先端においてもコンピュータに「考えさせる」というのは、私の知る限りにおいては、まだ「計算させる」というレベルでしかないはずである。
 さて「大戦略」の場合には、あくまでもゲームソフトでしかないわけなので、大真面目に思考させることよりも、いかに人間プレイヤーに面白く感じさせるか、というところに力点を置いている。人間に勝つという結果を求めるのではなくて、途中のプロセスを少しでも楽しめるようにするようにしてきているわけである。
 残念ながら、それすらも全てのお客様に満足していただけるレベルにはなっていないが、一部には完成されつつある部分もある。特に、コンピュータの強みは人間と違って感情がないことである。人間の場合には、たとえコンピュータの中のバーチャルな兵器であっても、自分の兵器には愛着がわくものである。全滅すると分かっている局面では、あえて犠牲にしようとはせずに一時撤退という選択をするはずである。コンピュータの場合には、極めてドライにそのときにいちばん効果が上がる方法を選択する。個別の兵器への愛着など無関係に、である。つまり現状においては、こういう人間の弱点を突く、というような姑息な戦法をもっぱら研究(?)しているのである。
 聞くところによると将棋の世界では、男性と女性の棋士のレベルの差が、とても大きいそうである。一説によると、女性のほうが性格が優しいために、完膚なきまでに相手を苦しめるというような考え方ができないからではないか? という分析があるらしい。真偽のほどはさておき、人間のすることである以上、なんらかの感情面の影響があることだけは確かであろう。今後も、人間VSコンピュータの話題に注目していきたいものである。

(コラム終わり)

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